数学とか語学とか楽しいよね

フランス語、ドイツ語、ロシア語、アラビア語、オランダ語、英語、スペイン語、ラテン語とか数学とか数値計算(有限要素法、有限体積法、差分法、格子ボルツマン法、数理最適化、C++コード付き)とか勉強したことをまとめます。右のカテゴリーから興味のある記事を探してください。最近はクラシックの名演も紹介しています。Amazonアソシエイトを使用しています。

中村佳朗氏『CFDの歴史的レビューと展望』の抜き書き

はじめに

中村佳朗氏の『CFDの歴史的レビューと展望』を抜き書きしていきます。
https://www2.nagare.or.jp/cfd/cfd28/webproc/paper/S01-1.pdf

抜き書き

「それまでは、私が関係する航空宇宙工学分野では、理論では相似解、微小擾乱理論が花盛りであった。理想的な流れの場合のみに適用でき、実際的な流れや大変形の流れは扱えなかった。非線形の典型である NS 方程式の厳密解(理論解)はほとんど不可能で、CFD が現れると、それを使って解いてみたいという願望が高まった。新しい世界の幕開けである。」


「今考えると、愚かであったのであるが、当時はCFDの基礎も分からない状態で、ひたすら2次精度で計算した。Reynolds 数が大きくなると発散するのは当然のことである。これを名大の大型計算機センターでバッチジョブとして流し、結果を取りに行くと、無残にも、棚に返却されていた結果は数枚で、計算が発散して途中で止まっていた。このようなことが繰り返し続いた記憶がある。」


「境界層を解くことにより粘性流の新しい世界が展開されたが、欠点は、剥離現象などの大変形の流れが解けないことである。当然、誰しも、次は、NS方程式を直接解きたいという願望に駆られた。」


「1969 年、NASA のMacCormackが陽解法のMaCormack 法を提案し、当時多くの人がこの方法を採用して流れを計算した。計算法は基本的には予測子・修正子法である。この方法は簡単で使いやすかったが、陽解法のため、境界層のような剪断層をより良く解像するために多くの格子を用いる場合、Courant 数の制限から、時間刻みが小さくなり、計算コストが大幅に増加した。」


「これに対して、同じくNASA Ames 研究所のBeam と Warmingが1976年、陰解法のBeam-Warming法を開発した。これにより、定常流であれば、時間刻みを大きくとることができるようになり、CFD の実用化が一層促進された。」


「ちなみに、私がNASA Ames 研究所に滞在したとき、MacCormackもWarmingもBeamもCFD Branch に所属していた。MacCormackは体も大きく豪快な感じの人で、それに比べてWarming は華奢な体つきで、かつ数学屋という感じを受けた。」


「1970 年代の CFD における画期的な進歩の一つは、一般座標での計算ができるようになったことである。これは、1974 年、Viviand(France)とVinokur (NASA Ames)が、それぞれ別に、一般座標での保存形の方程式を示したことによる。」


「Vinokur は私がNASA Ames にいたとき、CFD Branch におり、何を研究しているのかよく分からない、変わった感じの人だった。」


「一般座標に関連して、body-fitted coordinates の作成法が盛んに研究された。当時は、格子を研究者自らが作り、これを作るのに多大な時間を費やしていた。」


「ちなみに、宇宙研の桑原邦夫先生もvortex methodが大好きであった。しかし、桑原先生は、その後、3次精度の河村スキームを使って、差分法で多くの興味ある計算結果を出し、皆が感心させられた。」


「LESに関しては、私が博士の学生か助手になった頃、日本で知られるようになった。」


「当時の航空宇宙技術研究所(NAL)で、NALの広瀬直喜さんが特別講演を行い、LESを紹介された。そこで紹介されたのが、Stanford大学の博士の学生だったKwakの博士論文であった。Supervisor はProf. Reynolds である。私もこれに大変興味を持ち、一生懸命勉強し、自分でもプログラムを作り計算してみた。私がNASAに行ったとき、Kwak がApplied AerodynamicsのBranch(CFD Branchと同じ建物で、CFD Branchが2階、AppliedAerodynamics が1 階)いたのには驚いた。Kwak に博士論文について聞いてみたら、あの時は時間がなく、慌ただしく提出したとのことであった。」


「私は、1981年から1983年にかけて、NASAのAmes Research Centerに NRC 研究員として滞在する機会を得た。私より前に里深信行先生が滞在されており、私のほんの少し後に、藤井孝蔵先生が来られた。ちなみに、私たち3 人は同じ建物のアパートに住んでいた。私が帰る頃に、中橋和博先生が来られた。その他、桑原邦夫先生、堀内 潔先生、小野清秋先生もおられたし、NASA Amesにはヘリコプター部門があり、そこには東大の河内啓二先生、JAXA の斎藤 茂さんがおられた。大変にぎやかな楽しい時代であった。」


NASA Ames には、有名な研究者がたくさんいたし、世界から多くの訪問者があった。当時としては、CFDのメッカであった。私は、CFD Branch に所属していたが、Branch Chief は、Lomax で、大変やさしい人であった。毎日、幼稚園生が持つような弁当箱を持って出勤した。また、パーテイーが嫌いな人でもあった。乱流モデルのBaldwin-Lomax モデルとしてでも有名で、Stanford 大学でも教え、学生も指導していた。」


「その他、TVD法で有名なHartenも、イスラエルの大学の先生であったが、夏休みなど休暇になるとNASA Ames に来て、他の研究員と一緒に研究していた。Harten 先生, 里深先生、私の 3 人でテニスを一緒にやったことを今でも覚えている。残念ながら、Harten先生は、心臓病で亡くなられた。」


「私のアドバイザーは、AnthonyLeonard で、LES のLeonard 項で有名な人である。CFD Branch では、Turbulence group のリーダーを務め、このgroup には、Moin や Kim がいた。Moin や Kim は、確か、そのときStanford大学のAssistant Professorでもあった。」


「一方、Turbulence group には、現在Boeing にいる、乱流モデルで有名なSpalart がいた。彼は、当時Stanford大学の学生で(フランスからの留学生)、渦法を使った研究をLeonard と一緒に行っていた。フランス人らしい物おじしない学生で、いろいろ議論したことを今でも覚えている。博士号を取得した後、Spalart は研究対象を乱流モデルに変更した。Vortex method に限界を感じたのであろう。Vortex method はscienceとして現象の理解には有力な武器であるが、実用性に欠け、今ではあまり使われていない。Lagrange表示では粘性を考慮するのも難しい。」


「1983 年に私がNASA Ames での滞在を終了して日本に帰ってきたとき、日本ではスパコンがちょうど出始めたときであった。名大のプラズマ研究所(今の核融合研究所の前身)では、1982 年に富士通スパコンが導入された。ちなみに、スパコンの導入は、東大が最初で、2番目であった。武本行正先生(現四日市大学)が当時プラ研の助手をされていて、武本先生にお願いしてスパコンを使わせていただいた。武本先生とは、一緒に研究もやらせてもらい、当時登場した移流項を3次精度で計算する QUICK 法(B.P.Leonard; Anthony Leonard とは別の人)を一般座標表示に拡張した。当時 JAXA か東大の学生だったか、和田安弘さんがISCFD-Tokyo の国際会議のときに、私のところにきて、QUICK法は本当に3 次精度ですかと質問されたのを覚えている。」


「ちなみに、3次精度では2 次精度よりも安定良くかつ精度よく計算できるので、直接法(Direct Numerical Simulation)として乱流計算もできるのではないかと当時期待された。しかし、乱流はご存知のように大きなスケールから小さなスケールまで幅広いスペクトルを持っており、そのようにはならなかった。」


「また、このままCFDが進歩すれば、将来風洞は要らなくなるのではないかという議論が米国の学会などで盛んになされた。現状を見るとそのようにはなっておらず、相変わらず風洞は使用されている。つまり、両方必要であるということである。」


「ここで是非触れておきたいのは、日本の CFD である。日本のCFD として大きな動きがあったのは、科学研究費重点領域「数値流体力学」(1987 年度~1989 年度)である。この科研費で、日本のCFD研究者が結集し、CFDにdriving forceを与えたと言える。これは、航空関係の研究者がまとまって科研費を申請しようとしたとき、機械関係の研究者もまとまって出そうとしていたことが分かり、話し合いの結果一緒にやることになったものである。代表者は、名大の保原 充教授と東北大の大宮司久明教授であった。事務局は名大で私が担当した。この科研費のお蔭で、日本のCFD研究者の交流が深まると同時に、活動の副産物としてシンポジウムが立ち上がった。」


「この科研費の活動の一環として、数値流体力学シンポジウムが開催された。第1回は、1987 年 12 月の末に、大宮司先生が運営委員長となり、会場は、川原睦人先生のご好意で、中央大学で行われた。」


「さらに、流体力学研究者においても、ソフトを自分で作る必要がなくなれば、理想的である。こうなると、流れそのものの研究に集中できるようになる。得られた結果から流れを十分理解し、その中から普遍的なものを抽出することに時間を割くことができる。そうすれば流体力学の研究は、一層発展するであろう。」